『近い将来、芸術活動をするアーティストとして生きてみたい』そんな想いを心に秘めた全ての高校〜大学生に向けて、プロのアーティストとして一歩を踏み出す勇気を持っていただきたい。このような想いで当財団アート部門奨学生がイベントの配信を企画いたしました。現代アートシーンの第一線で活躍する現代美術家の塩田千春氏、練馬区立美術館館長の秋元雄史氏をゲストにお招きし、「アーティストという生き方」がもたらす経済的不安、自分らしい制作を追求する闘い、制作がもたらす喜びについてお話いただきました。
ーー美大卒業後、塩田さんはスタジオなどをご自分で用意されたのでしょうか?大学という場から離れての制作活動に孤独を感じたことはありますか?大学卒業後の活動について教えてください。
塩田千春氏(以下、塩田): 日本の大学を卒業した後が、実は一番問題でした。というのも、日本だと大学を卒業しても22歳とか23歳で、ギャラリーで個展をするのにも、美術館で展覧会をするのにも、相手にされない歳なんです。だから私は海外留学をし、結果的に30歳まで学生をしていました。
私は日本の美大を出た後、幸運にも目黒区美術館でグループ展に参加する機会があったんです。それが、日本の染織テキスタイル展というもので、私はそのカテゴリーがすごく嫌だったんですね。それともう1つ、秋山画廊で個展を開催したんですが、貸し画廊なので1週間に50万円の費用がかかるんです。でも学生なら安くしてあげるということで、2週間で25万円にしてもらえました。当時はお金を払えば、貸し画廊で個展ができるという時代でした。私の作品は糸を使うからか、テキスタイル作品と思われているけれど、私自身はもっと造形的でありたいという気持ちや、ちょっと違うという違和感もずっとあって、その時にドイツへの留学を決めたという感じです。日本に帰ることはないんじゃないかなと思って、片道切符でドイツに渡りました。
ーーどうしてベルリンにしようと思われたのでしょうか?
塩田: 日本の美大を卒業後は留学をしたいと思っていましたが、両親は大学を卒業したら私が就職すると思っていたので、それ以上お金のサポートは頼めませんでした。
実はドイツって学費がかからないんです。学費がタダっていうのに加えて、受け入れ先が当時マグダレーナ・アバカノヴィッチというポーランド人ファインアート作家だったんです。彼女の元で勉強ができるなら、ということでドイツに決めて、しかも学費もタダだし…と思って行ったはいいんですけれど、実際にその学校で教えていたのはマグダレーナ・アバカノヴィッチじゃなくて、マリーナ・アブラモヴィッチで。全然違うアーティストだったんです。身体を傷つけながら、限界まで自分を持っていって作品を作るアーティストのところに、間違えて行ってしまって、彼女も私を受け入れてしまったのです。
ーー最初にそのアーティストの方とコンタクトを取ったきっかけはなんでしょう?どのようにその情報を知ったのですか?
塩田: 交換留学でオーストラリアにいた時、図書館でマグダレーナ・アバカノヴィッチのカタログを見ていたら、ドイツで勉強していた友達が「これ、うちの先生だよ」って教えてくれたんです。彼女が間違えたんですよ、マグダレーナ・アバカノヴィッチと、マリーナ・アブラモヴィッチを。「そうなんだ。」と思い、日本の美大を卒業したら海外に出ることを希望していたので、その流れでそのまま話を進めました。
ーー私は武蔵野美術大学の学部を卒業していて、日本の貸し画廊で50万とか25万とかお金を払って展示をするということを、大学の教授から聞いたことがあります。昔は学生が投資してもフィードバックがある、プラスになっていくことがあるから払っても価値があるという感じの認識ですが、私の年代だと、まずそのお金を貯めるのも難しい。やってみてプラスになるのか?と。20代中盤頃はどんな年代だったんですか?日本の美術の話を、塩田さんと秋元さんお2人に聞きたいです。
塩田: 秋元さんがよくご存知だと思いますが、昔は貸し画廊ばっかりだったんですよ。
秋元 雄史氏(以下、秋元): 塩田さんは初め何回か貸し画廊でやってたの?
塩田: いえ、初めてで、それが秋山画廊でした。秋山画廊の話が来ること自体、すごい話なので、それで喜んでやったんですけど、貸し画廊での展示費用でドイツ留学のために貯めたお金も全部なくなっていくし、はがきを送る切手代も自分で払わないといけないし、すごく大変で…。現代美術を日本でやっていくのはこんなにお金がかかるんだということを思い知らされた時期でした。大学を卒業してすぐくらいです。
秋元: 塩田さんが発表し始めた頃は1990年代の終わりぐらい?
塩田: そうですね、95年とか94年とか。
秋元: そうですよね、その頃がたぶん貸し画廊が機能している最後の方。いま、若い人たちに、貸し画廊を借りて展覧会をやったほうがいいよ、という先生はあんまり多くないと思います。やはりすごくお金がかかるし、昔は、先生も含めてジャーナリストも新聞記者もそうだったけど、貸し画廊を回ってその作家さんたちの作品を見るみたいな、そういう文化があったんだけど、いまなかなか見て回ってる人も少なくなってきてるので、そこで見て、発見してもらえる機会は減ってるんじゃないかな。
ーー昔は貸し画廊で若い作家を発掘しただけど、今はあまりそういう流れがないということですが、今はどのような媒体で発見してもらうケースが増えているんでしょうか?
秋元: 一つは、国内だとコンクールみたいなのが大小含めると結構な数があるし、そこで審査員の人たちは確実に見ていくので、それが一つかな。あとよく聞くのが、今コマーシャルギャラリーが結構な数活動しているので、そこに持ち込んでいく。結構みんな自分のファイルを持ち込んでいって、めげずに売り込んでいく。そうやって機会を得る。
ーー大学生時代、卒業制作展や終了展にギャラリーの方がコンタクトを取りに来るとか交流はあったのでしょうか?
秋元: いや、今みたいなことはないですよ。塩田さんのほうが全然若いので、僕なんかは相当古いけど、僕も芸大美術館にいて芸大の卒展の様子とか見てたけど、昔はあんなに大学の時代からギャラリストとか、若手の評論家とかキュレーターが見に来る状況はなかったので、そういう意味では大学の卒展も発表の場所だっていうふうに今の若い人たちは思ったほうがいいんじゃないかな。相当に見てもらえるはずです。へたに場所借りてやるよりも、卒展で力を入れてちゃんと発表した方がよっぽど機会を得るチャンスなんじゃないかな。
あともう1つ、塩田さんが何気なく言ったけど、海外に出るっていうのはいまだにやはり大変で、勇気が必要だけど、一つ大きく環境変えて自分の能力を引き出していくいい機会にもなるだろうし、もう1つ、塩田さんがさっき言ってましたが、日本はまだまだ若い作家に機会を与えていくとか、可能性を引き出していくような機会を与えていく、ということが制度的に弱いので、そういう意味では、思い切って海外へ出ちゃうっていうのはある。