大泉町の人々(2)

西小泉駅に掲げられた、多言語での「ようこそ」

今回、「ローカルなグローバル」をテーマに写真家の佐々木さんが作品をつくる過程で、多くの方に協力していただきました。どんな人生を歩んで、どんなことを考えて暮らしているのでしょうか。

「び V ビ よみもの」では、2名の方へのインタビューをお伝えします。
・手芸店、まるみやを経営されている、本多清野さん。
 本多さんは、娘の明子さんと一緒に、大泉町で手芸店まるみやを営んでいます。
・学生時代に養鶏場でアルバイトをはじめ、卒業後関連の人材会社で働いている、ペルー出身の新妻ディエゴさん。

2回目の記事では、ディエゴさんに登場いただきます。小学校でペルーから来日して、どのような思いでいまに至ったのか。ぜひお読みください。

(1回目の記事:本多さんの戦前からの人生は、こちらから。)

インタビュアー:佐々木、森田、小沼、吉山(「ローカルとグローバル」チーム)

ペルー出身 新妻ディエゴさん

――今回撮影されてどうでした?
(ディエゴさんは、「ローカルなグローバル」の佐々木さんの作品で被写体になっています。)

恥ずかしかったですよね。写真は結構恥ずかしいものだなと。

ディエゴさん(左)、佐々木(中央)

佐々木:私は養鶏ゾーンにあんな近くに中に入ったのが初めてだったから、ニワトリとかいっぱい撮っていたましたよね。

そうですね。撮っていました。

佐々木:(卵を)磨いているのとか、良かったです。最初ディエゴさんの話を聞いた時、卵を磨くバイトをしていたというのは衝撃的だったから。

そう高校の頃に、なかなかないですよね。普通は(卵は)機械に入れて洗っているんですが、それが殻に悪いところもあるから、うちら(高校時代のアルバイト先)では、一個ずつ手で磨いているんです。

バイトで卵を磨いていました。

――なぜそのアルバイト選んだのですか?

高2になって、そろそろバイトしないとなあ、ということで(探していたのですが)、お父さんが毎日やるより土日だけやってみればと言って(紹介されました)。
お父さんの知り合いの会社で、土曜日だけだったらソーラーパネルの掃除とか力仕事もあるけど1日だけどう?といわれて、ぜひやらせてください、ということで行きました。日当1万円で、しかも働くのは6時間だけとか、結構いいバイトでした。
そのままバイトを続けてたら、(同じ会社がやっている)卵屋の方に、土日だけバイトをやらないかと言われて。それから土日だけ、周りの人もいないので、ずっと一人で(卵を磨いてました)。

――周りの人もいない?

いないです。土日社員は休みだったので。
平日は社員がやっているのですが、土日は餌あげる人もいないから、私がバイトで入りました。日当はそのまま一万円だったのですが、ぜひやらせてくださいということで。

――土日でも卵は生まれる…。

そうなんですよ。休みだろうがなんだろうが。まあ一人だったので、自分の好きなタイミングで働いて、休憩取ったり、取らなかったり。私から見れば凄く楽だったアルバイトです。ずっと一人ですけどね。

――高校を出て・・・

専門学校行きました。

――その間も、養鶏の仕事は続けて?

続けてました。土日だけやって、月に10万くらいは貰っていました。専門学校生には悪くない。

――卵を磨いている間一人ということですが、どうしているのですか?

話す人もいないから、途中から音楽聴きながらイヤホンしながら仕事していました。

――その間何考えています?

このあとバイト終わったら何をしようかな。何食べようかなとか。高校生だし。

――いくらお金がもらえるといっても、この仕事飽きたな、辞めたいな、とはならなかったですか?

思わなかったです。専門学校が前橋だったんですよ。ここから車で一時間くらいですね。毎日車で行っていたんです。家に帰ってくるともうへとへとで、これからバイトだったら大変だろうって。
平日は勉強して、土日だけバイトできたのでよかったです。金額もよかったですし。あとは楽というか、自分の好きなタイミング・時間で仕事できるので、すごくやりやすかったです。

――ノルマはあるのですか?1日何個って。

1日の卵は全部磨かないといけないんです。

――でも産む量って日によって上下しませんか?

大体同じです。プラスマイナス100くらいですが。

――その卵を全部一人でやっていたのですか?

そうです。今はもっと増えているんですけれど。
まだ事業が始まって1、2年の頃だったので、鶏も少なかった。一人でやっていけました。あとは、やりながら餌あげたりもしてました。

――確かディエゴさん、ニワトリ触れないんですよね。

今でも触れないです。

――どうして?

何だか怖いんですよね。

――そんなにずっと囲まれていても、まだ触れない。

一回だけ、いつも通り戸を開けて中に入ったら、一匹逃げられてしまいました。
捕まえないと・・ということで社員に電話して「すみません、これどうしたら良いですか?」と聞くと、「捕まえて中に入れればいいじゃん。」「わかりました。」…
できないと言えないですよね。だから一時間ぐらい追いかけていました。ニワトリ追いかけるの、すごく大変なんですよ。結構早くて。

――捕まえられたんですか?その時はもう意を決して?

結局触れなかったです。ダンボール(箱)を上からかぶせてなんとか。

――社員の人も、さすがにディエゴさん触れないって・・・

分かってしまいました。

日本に来て、何もかも新鮮で、面白かった

――ディエゴさんは、元々生まれは?

生まれはペルーです。12歳の頃に日本に来たんです。小学校5年生です。

――その時日本に来てどうでした?

楽しかったです。何もかも新鮮で、何もかも面白くて、新しいものばかりで。

――それまで色々、話では聞いていた?

話で聞いていて、来る1ヶ月くらいに前に、ペルーで日本語勉強していたんです。
まあ1ヶ月くらいだから、おはようございます、くらいしかできませんが、あちらも日系の学校が結構ありますので、そこで勉強していました。

日本に来て、家の近くの公立の小学校に入ったんです。うちの場合は2つ選べたんです。近くの15分くらいの学校は日本語教室がなかったので、50分くらい離れている学校に、そこは日本語教室あったので行っていたんです。

――車で?

歩いて。結構な距離でした。
ペルーの時はいつも車で連れて行ってもらったりしてましたし、帰りも(迎えが)外で待っていました。もう50分も歩けない。今思うとすごいですね。携帯も持ってなくて、ずっと歩いてました。

――お兄さんも一緒だったのよね。その頃はね。

そうそう、お兄さんも一緒。お兄さんの場合は中学校三年生で入ったので、俺より日本語を覚えるのが大変だったんです。

曲の言っていることがわかると思った瞬間は、日本語を理解できることを実感した

――日本語教室があって良かったですか?

最初はどんな言葉でも、基礎を覚えるのがいいですね。太田とか大泉、群馬は日本語教室がある学校が多いです。やっぱり外国の方多いので。

――その日本語教室ってブラジル人・ペルー人、スペイン語、ポルトガル語?

その時は二人ぐらい先生がいらっしゃいまして、ポルトガルとスペイン語を話せる先生がいました。生徒は10人くらいいたと思います。年齢バラバラで小学校2年生もいながら、中学も。

――日本語教室は朝からずっといる訳ではなくときどき?

最初の一週間はずっとそこにいましたね。そのあとは、数学と英語はみんなと一緒に受けて、国語・日本史・社会の時間は日本語教室でした。やっぱり国語はどうしても覚えるのが大変だから、日本語教室に行って日本語勉強したほうがいいということで。

――5年生から6年生までも、ずっとそうやって日本語教室で。

はい。中学になった時も、日本史の時などは、少し(日本語教室に)行ったりしてました。
高校に行って、なくなりました。

――何年生くらいの時に、もうほとんど他の子ども達と変わりなく会話できるな、と思いましたか?

高1か高2だと思います。音楽聞いても曲の言っていることがわかる、と思った瞬間は、自分で日本語理解できるなと思いました。

――お笑いのビデオを見てたと言ってましたね。

今もそうですが、結構、お笑い見ながら日本語覚えました。

――お笑い番組見始めたのはいつですか?

小学校6年生から。

――好きな芸人とかいますか?

今は千鳥が好きです。バリバリの大阪の。

――外国に行ってテレビを見ていても、そういうお笑い系の番組って、なかなかすぐ笑えないですよね。

そうですね。今でも、お父さんとかに見せてもなかなか(笑ってもらえない)。

――ツボがわからないからね。

そう、ツボがわからない。そのツボが(自分は)一応わかる。

そんなにスペイン語話せないのに家族ができた祖父を、すごいと思う。

――ペルーは、どちらの出身ですか。

プカルパという、リマから一時間くらい離れている、アマゾンに近い方の街があるんです。

――ペルーって3つ気候と特色があって、山・海・アマゾンに分けられます。ペルーアマゾンは、チェ・ゲバラとか、モーターサイクルダイヤリーズがその舞台。
そこから日本に来て、暮らし方とか変わりました?

暮らし方も違う、文化も違う。
例えば学校で子供が自分で掃除するのは、何でうちらが掃除しなきゃいけない、という感じでした。あっちは、お手伝いさんとか、そういう専門の人がいました。私立のちょっとだけいい学校にいたんです。
(日本に来て初めは)なんでうちらで掃除しているんだ?と思いました。あとは給食とかの文化もなかったので驚き。でも楽しかったです。

――元々プカルパって、なぜそこに?

日系コミュニティがあるんですよ。移住者が日本から来た時に、アマゾンあたりで土地が一杯余っていたから国が無料であげるからっていうことで、結構いますね。

――最初に来たのは・・・

曾お祖父さんですね。

――入植してアマゾンの原生林を切り開いたのが、曽お祖父さんの世代ですね。アマゾン移民は本当に大変だったようですね。マラリアにかかりながら。
でも最初から地主だったところが、サンパウロあたりの移民とは状況が違いますよね。

曽お祖父さんもブラジルから入って、ブラジルに合わなくて、ペルーに来たら土地を貰ったんです。

――ブラジルは南の方に入ったんでしょうね。サントスとかね。

そうサントスから。みんなブラジルには入ったと思います。

――ブラジルの南に入った人って土地を貰えたわけではなくて、ブラジル人のコーヒー農園で雇われ人というか、主によって良い人もいれば悪い人もいて、状況は大きく違ったみたいですね。それで嫌になったり、独立心旺盛だった人はすぐ出て、自分で新しいことしたり、というのは聞きますね。

曽お祖父さんが土地を貰ったのは結構アマゾンの中なので、自分で切り開いていったようです。

――曽お祖父さん、お祖父さんがどういう暮らしをしていたか聞いたりしたのですか?

おばあさんから(聞きました)。今でもすごいと思うのは、そんなにスペイン語話せないのに家族ができている、子供も生まれている。言葉じゃないんだねということ。俺もおばあちゃんともそこまで話したことないのですが。

――曽お祖父さん、曽お婆さんが2人で来たんですか?

曽お祖父さんが日本人で、曽お婆さんがペルーの人でした。

――じゃあ若い時に来たんだ。

そうですね。

――何県から来たんですか?

宮城県です。

――戦前だよね?

そうですね。それくらいですね。
聞いた話では、曽お祖父さんに兄妹が3人いて、1人がアメリカに行ったらしいんです。もう1人は戦争で亡くなった。

――佐々木:私も両親が福島出身なんですが、福島からブラジルに行って、突然いなくなったというクラスメイトが結構いたって聞きました。それはきっと曽お祖父さんのあとで、戦後も結構あったのですよね。

ありましたね。

――戦前は日本も大変な時期だったから、とりあえず行って、ある程度お金貯めたら戻ってこようと思って行った人がほとんどのようです。戦後はむしろ、移住して夢を追いかけるぞ、みたいなロマン派もでてきて、帰ってこようというよりはもっと大きなところでやりたいっていう人たち、移住に夢を抱いた人たちというのも、結構いるみたいです。戦前の人たちが帰りたかったけど、戦争の真っ只中で帰れなくなった、というのとはちょっと違う。

最初は、一時的な来日でした。

――日本に来ようというのは、どうして。

お父さんお母さんが最初は、1年だけ来てお金を稼ごうとしてました。1年間、うちらはお婆さんとペルーに住んでいたのですが、じゃあ(もう)1年残るか、ということで子どもをこっち(日本)に連れてきました。それでうちらがこっちで勉強して、お兄ちゃんも友達もいて日本に住みたいってなった。もう親もしょうがなく、今に至る。

――最初は一時的に来たんですね。

一時的ですね。一時的にいてペルーに帰るという事だったんですが、やっぱりこっちの方が暮らしやすいというか、慣れたというか。

――逆にお父さんお母さんは、やっぱりペルーが恋しいからペルーに戻りたいなってならなかったのですか。

それは一切(言わ)なかったです。父ちゃんも母ちゃんも二人とも子供のためだからって、じゃあここに残ろうって。ちゃんと家買って、布団の暮らしをするかということで。

――ペルーに行くことってあるんですか?

あります。一応あっちに家がまだあって、貸してますので、リフォームなどで。今もお母さんあっちにいて、リフォームしているところなんです。

――国際的な大家ですね。行くの大変ですよね?

行くだけで20万とか。(時間もかかりますし)すぐに1週間だけ行くか、とかならないですもんね。せっかく行くなら何ヶ月か行ったほうがいい。

日系人と日本の人の文化の違いを通訳している

――日本で、日系人との付き合いはありますか?

小中学校のころはあまりいなかった。1人か2人。いつも学校休んだりしていた人が多かったです。高校に入ってから、日系人のグループが作れました。
(すぐに日系人のグループができなかったのが)ある意味よかった。そうじゃないと日本語が覚えられなかった。やっぱり日系人だけでまとまってしまうと自分たちの言語で話してしまうので、日本語を話す必要がなくなってしまう。
結構、友達でいるんですよ。グループでまとまってしまって、スペイン語とかポルトガル語で話してしまうから、日本語を話す必要がなくなってしまう。

――日本語できなくても生活はできますか?

こっちにはブラジルの店とかもありますし、生活はできますね。

――小中学校の時に、周りの日系の人たちが休みがちだったというのは、どうしてなんだろう。

俺にはなかったけど、いじめが多いと聞くんです。お母さんもすごく心配したんですけど、俺の場合は一切なかった。なんでだろう。
今でも聞くんですよね、派遣さんたちが、子どもが日本にいるんだけど怖いんだよと言っていたり。

――職場にも結構日系人がいますか。

社員の中では唯一の日系なんですけど、派遣会社なので、派遣社員たちは日系人が多いです。ブラジル、ペルーが一番。

――日系人以外の外国の方も増えてきている?

ベトナムとかネパールなど、日系人じゃない人も最近はすごく多い。

――ディエゴさんは派遣社員をまとめる立場なんですよね。日系以外の人に接するときに気をつけていることってありますか? 上司として管理する時にペルー系ブラジル系とは違う対応をやらなきゃいけないことあります?

真面目なんですよね。なぜかというと、仕事がそんなにない。だから渡された仕事も真面目にやって頑張る。ビザの関係で休みを取らないといけないことが多いので、そういうところはフォローしながらやるしかない。

逆に日系の場合は、派遣先からクレームがきたりとか、休みが多いということがあります。私から見れば、まだ日本の文化に慣れていない人が多い。
グループで頑張りましょうという(日本の)文化から、誰か休めば誰かが仕事しないといけないけど、その負担をあまり考えていない人が多い。それは性格というよりも文化の違いで、結構サポートしたり、休まないようにしてます。市役所に代理で行ったりとか、大使館などへ行ったりとか、色々やってます。

でも今でも企業さんからクレームきたりとかはあり、しょうがないところもあるので、そのときはもう、謝っています。やっぱり、その立場にならないとわからないことがあるので。
授業参観で仕事を休むと、(日本の会社からは)迷惑ってなりますけど、本人たちにしてみれば、仕事を休まないとこれ誰がやるの?っていうことも多いので。

――休みにもそれなりに理由がある?

そうですね。例えば、子供が保育園で喧嘩をした時、日本ではお母さんが行くことが多い。お母さんが保育園に行って、お父さんは仕事。でも外国人の場合、お父さん、お母さん、両方とも行きたい。そういうところの文化の違いがある。
いやそこ、お母さんに行かせればいいじゃん、と言われたりするのですが、本人は家族思いというか、子供に何かあったら責任とってくれるの?じゃあ俺行くよ、となる。
そういうところの文化の違いで結構、嘘をつかれます。それで、とりあえず俺に正直なことを言って、そうすれば俺が何か考えて言うからって、言ってます。

――ある種、通訳になってる。

そうですね。本当に通訳もしますが。

――ベトナムとかネパールの人とは日本語で?

そうですね。ネパールだったらたまに英語で話す方もいます。あとはグーグル翻訳を使ったりもしてます。

生活がうまくいかないと仕事に影響が出るので、できるだけ手伝ってます。

――そういうネパールの人とかベトナム人にとっても、ディエゴさんは日本人じゃない感じがして、ちょっとは自分たちに近いと思うところもあるのかしら?たとえ言葉が違っても。

そうですね、頼りやすいのかも。

――まさに架け橋という感じですね。

この書類わからないどうすればいい?− いいよ手伝うから、ということが多いですね。その分すごい仕事が増えるんですけど、サポートするのが(自分の)仕事なので。
このアパートどこで探せばいい?とか。不動産屋に電話したりとか。頭金いくらとか、そういう話をすることも。

――仕事だけでなく生活も。

結局は、生活がうまくいかないと仕事も休んじゃうとか、影響が出るので、できるだけやってます。生活で困らないようにすると、仕事にも問題がでないので。

――日本で過ごして来た人だと大したことない、当たり前のことが困ったりする。

そうなんです。例えば住民票取りたいとか。普通だったら取らせに行かせればいいけど、俺の場合取ってやるよって、取ってあげるから仕事に行こうって。普通だったら自分で行かないといけないものですけど、確定申告だったり、そういうところまではわからないから。

自分のお父さんも日本語話せないから、俺がやらないとだれがやるって思って、14歳から確定申告したりアパートのことを電話したり、自分がやりましたね。

――板挟みになることも多いですよね。

もう謝るしかない。

――あっちからも言われて、こっちからも言われて。

誰かから言われて俺が許可した、でも上にいうとダメと言われたりする。でも、許可出しちゃったからもう、ダメっていえないじゃないですか。頑張るしかない。

ペルーと日本、半分半分で、両方の気持ちになれる

――結構人の立場に立って動いてらっしゃるなと思ったのですが、そのディエゴさんってどうやってできたのかなと思ったんですが。

僕はいま23歳なんですが、ちょうど半分半分なんです。ペルーに住んでいた12年とこっちに住んでからの10年くらい。自分で思うのは、両方の気持ちになれるからかも。

――多分住んだ年数的に言うと、両方の経験があるよっていう人は一杯いると思うんです。だけど、もっとお互いの気持ちを理解してあげて、もう一歩やってあげているんだろうなと感じます。

例えば日本に10年いても、その間工場だけにいて、外の世界を見ていない人がいます。ずっと働いていて、帰る。働いて、帰る。私のお父さんとお母さんもそうなんです。ずっと工場だったので、色々わからない。今は解りやすくなっていますけど、昔は社会保険とかない。
俺のお父さん、有休すらもらっていない。5年か6年くらい前にようやく、派遣社員でも有休ってあるんだねっていうのがわかった。それまで派遣会社も黙っていて。そういうところがあるから、しょうがないと。

外国人が支払っていない保険だったり税金が(ありますが、そういうものが)出てくる理由があると思うんです。
お父さんもいってたんですが、最初から年金とか社会保険とか全部払うと、強制的に会社から引かれるものだともし言われていれば、ああ、じゃあ強制だから仕方ない、とみんな払っていると思うのです。そうでなかったから、払わなくていいんだ、という流れが生まれたんだと思いますね。

――わからない人からすれば会社から言われたことが全てになってしまう。

そう。言われれば会社がちゃんと言っているから正しいと。

どんなに辛くても自分のものだから、自分で何かビジネスを作りたい

――そろそろ、日本の方が長くなるんですね。

そうですね。

――自分の中のペルーらしさとかそっちがだんだん比重的には小さくなるじゃないですか。それをキープしようとする何か気をつけていることとかありますか。

家ではスペイン語だったり、あとペルーのニュース見たりとかとかしている。

――意識はして情報とか含めて取ろうとしている。

そうです。
でもやっぱり最近日本の方が慣れて来て、ペルーのニュース見ても何でこんなことするんだろうとか思うことはいっぱい出てきている。

――これから将来とか何か考えているんですか?

日本で何かビジネス作りたいなって思っていて・・・、まだ何作るかわからないですけど。

――どこかで働き続けるのではなく、自分のビジネスを、というのはどうしてでしょう。

小さい頃から、俺のお父さんがペルーで自分で会社持っていたんです。だからそのせいかもしれないですね。自分で何かやるのが一番楽しいかも。どんな辛くても自分のものだから。

――移民のDNAですね。打ち上げてなんぼ。

――独立する時に、例えば東京とか、違うところに行こうかなという気持ちはありますか?

東京は、なんかわからないですが、すごく難しいかな。ここでビジネスやろうとすると資本金とかお金がこれくらいあればいいのに、東京でやろうとするとそれより何十倍掛かるというイメージ持ってしまうんですよね。

――東京でなくても、日本の中で違うところに行きたいなって思うことは。

それはありますね。ああでもどうかな?群馬が好きなんですよ。家族もこっちにいるし。やりやすさがあると思うんです。

――これだけ長く暮らして、ずっと日本で生まれ育った人と違いと感じることってありますか?

中学とか小学校の友達で、挑戦するのが怖いとか、みんなと同じことやっているのに違うことやるのが怖いとか、結構多いんですよ。

――そこがあまり解らない感じですか?

そうですね。挑戦したほうがいいじゃん、何もかも − そんなところに違いを感じます。もしかしたらうちの周りだけかもしれないですが。
失敗するのが怖い、怒られるのが怖い。この職業怒られるのが普通だと思っちゃうから、変な考えになったのかもしれないですけど、怒られるものは謝ればいい。それでいけばいいじゃん、と思います。

(左から)ディエゴさん、佐々木、吉山、森田、小沼

テーマの一つが、「ローカルなグローバル」。

人は昔から世界中の国境を越えて移動をくりかえしてきました。友人・親戚をたずねて、夢・希望を追い求めて、あるいは危険や貧困を逃れて。辿りついた地で、新たな人と人の出会いがあり、新しい物語が生まれていきます。高校生の視点から日本の中のある町に存在する国際社会に向き合います。

ここで登場した、本多清野さんも、作品作りに関わってくださっています。
ぜひ、会場までおいでください!
(関連のトークセッション、特別講義もあります。)

http://view3.info