大泉町の人々(1)

ブラジル風に装飾された、新しい西小泉駅

群馬県大泉町は、外国籍比率が18%(2017年12月末現在)と、全国の自治体の中でもトップレベルの多文化なまちとなっています。1990年の入管法改定により日系人の就労が容易になったことから、ブラジル、ペルーなどの中南米諸国から大勢来日し、工場のあった大泉町に多数暮らすようになりました。

町としても、ブラジル文化を中心に多文化を大きく打ち出していますが、このまちには様々な人々が暮らしています。もちろん、以前から暮らす人々もいれば、より最近来訪したアジア諸国からの人々も多く暮らし、働いています。現在では、国籍は50を超えています。

今回、「ローカルなグローバル」をテーマに写真家の佐々木さんが作品をつくる過程で、多くの方に協力していただきました。どんな人生を歩んで、どんなことを考えて暮らしているのでしょうか。

「び V ビ よみもの」では、2名の方へのインタビューをお伝えします。
・手芸店、まるみやを経営されている、本多清野さん。
 本多さんは、娘の明子さんと一緒に、大泉町で手芸店まるみやを営んでいます。
・学生時代に養鶏場でアルバイトをはじめ、卒業後関連の人材会社で働いている、ペルー出身の新妻ディエゴさん。

ブラジルだけではない、多様な顔を持った大泉町の姿をお伝えします。

まずは、本多さんの戦前からの人生を、皆様一緒に聞いてください。

インタビュアー:佐々木、森田、小沼、吉山(「ローカルとグローバル」チーム)

手芸店まるみや 本多清野さん、明子さん

本多清野さん

昭和4年9月に太田市龍舞というところで生まれまして、2歳の時に父と母に抱かれて東京に来ました。それから東京の亀戸に住みました。後ろが大きな染物工場で、父の伯父さんにあたる人がやっていまして、その直ぐ前の長屋に引っ越してきまして、そこで育ちました。

それで小学校上がる前の6歳の時に私の父のお兄さんが、こっちへ来いといって行ったところが大島町(現東京都江東区大島)という、そんなに遠くはないところです。(伯父は)そこで幼稚園をやっていました。資格もなく何もなくあの時代は出来たんですね。そこで幼稚園の娘として私は小学校時代過ごしまして、先生が休みの時は私がオルガン弾いてました。若い頃ですから、オルガンなんか直ぐ覚えます。

皆と色々遊びまして、それから女学校は東京都立。あの頃でいう東京府立第七高等女学校(現東京都立小松川高等学校)と言いまして、なかなか入れない難しいところに入れました。そこから、女学校の生活をしまして、一年、二年、三年までやったのですが、戦争で爆弾でやられてこっちの田舎に逃げて来たものですから、その思い出ばかりが大きくて。

今でも隅田川見ると、本当に恐ろしい戦争の体験を思い出す

あの戦争中、花火かと思うほど上からチラチラとしていたのが、焼夷弾です。17歳の時でした。私はこれで、17歳で終わりか、ああ私は17歳まで生きたから良かったんだ、と思ったんですが、何でもいいから逃げろって言われて、暗い空へ向かって父と兄と私と3人が逃げて、偶然にも助かりました。本当にあの時は助かったというより恐ろしかったですね。

翌々日あたり、アメリカ軍が行ってしまってから戻ったら、皆んな死んでいるんです。
3月9日に焼けて、それでそのまま逃げて4月いっぱいまでぐらいこっち(大泉)にいまして、5月から太田の女学校に転校したんですけど、それまでは思い出すだけで恐ろしい。誰に言ってもわからないですよね。この経験は。

弟は龍舞というところで、疎開というのでしょうか、母の実家に来ていたのですが、東京にいた私と昭和二年生まれの兄と明治生まれの父と3人で逃げて、こらこっちだ、こっちだ、暗い空の方へ逃げろと荒川にいきました。橋を渡って、船堀(東京都江戸川区)というところに行ったんですが、そこで一晩、二晩明かしたかな。

そこに私が女学校入った時のお友達の家がありまして、豊田さんといったのですが、ちょっと顔を出したんですね。そうしたらお父さんが来て、私の家へ来てくださいと言われて、「とんでもない、父も兄も泥だらけだし」と言ったんですが、父がじゃあお前だけ厄介になれと。それから豊田さんの家に厄介になって布団の中で寝てご飯頂きました。今は夜中に昔のことばかり思い出します。

花火のように上から(焼夷弾が)落ちて、もうこれで終わりだ、とその時は思ったのですが、後で父と兄と3人で上野駅まで歩いて行く時、殆ど死体の山。死体といっても、焼け焦げた死体の間を通って…。お母さんが子供を抱いたまま真っ黒になっていて。
隅田川のところに行きましたら、隅田川にいっぱい浮いていて。可愛い男の子が上向きになって防空頭巾被って波に揺られていて、今でもその子が眠っているように揺れているのを思い出します。あれは言問橋でしょうか。あの辺はものすごい人で、あっちでもこっちでもぷくぷく浮いていました。熱いから飛び込んでそのまま死んだのでしょうね。道路も、歩けないほどみんな焼け焦げて死んでいる姿。あと馬もいたんですね。馬がこんな格好して黒くなっていたり。戦争の恐ろしさを本当に目の当たりにしました。
今でもね、東京に行って東武線に乗ってスカイツリーの隅田川見ると、本当に恐ろしい戦争の体験を思い出します。いっぱい死んでいるんです。こんなになって。

だから3月9日というと何十年経っても、はあーーーーと思いましたけれど、今いくらか薄れてきたんです。3月9日、恐ろしかったです。東京中が焼けて、あの時に6万人とか7万人とかって焼け死んだと言いますが、下町はもの凄かったです。

今でもあの情景ばかりが頭を巡りまして。あの頃は道路整備というのができていないで、みんなで逃げるとそこが塀だったり、そこの塀を乗り越えて向こうへ行ったり、本当に戦争中というのは逃げるように道路が出来ていなかったものです。
この間本を見ましたら、船堀の所にすごいタワーが建っていて、上から見てすぐ側が荒川で、その向こうはスカイツリーで、うわーーー、うちはこの辺だったなと思いまして。それで娘にその本を買ってもらいました。

女学校三年までは向こうに生活していて、あまり戦争が激しくなって、これじゃあ空襲で日本がやられるなんていうんで、女学校でみんなして写真を撮りました。近くの写真屋で撮ったのですが、その写真もどこかへ焼けました。
本当に皆んなが慕っていた高村先生という体育の先生がいたのですが、学校を守るためか何かで亡くなったのです。女学校はあの辺ではすごく立派な大きい建物でしたが、素敵なクリーム色の学校が焼けて、一ヶ月くらい経って行ったら真っ黒、どす黒い学校になっていて、うわーーーここで高村先生が亡くなったかと思って。

一緒に通っていた私たちのクラスで、同じ勉強していた人があの時、8人亡くなりましたね。あの辺は酷かったんです。焼夷弾で焼けて風が凄いので…、火事と一緒に風が起きるのでしょうね。焼けただれて死んだ中にいたんだなと思う人が8人いました。
誰も死んだ彼女も死んだという話が後になってわかりました。こっちへ転校してから色々な話で。〜ちゃんも〜ちゃんも死んじゃったって。それで、豊田さんも亡くなったのか、あの時恩になった寝かせてもらった豊田さんも。

明子さん:こっちでも空襲があったんでしょ。

あったあった。
3月9日に東京でやられたんですけど、その前に2月11日に母の実家 −すぐここ大泉の隣で太田市龍舞というところがあるんですけど −、そこにどういう訳だか、母と一緒に来ていたんです。
その時に富士重工が物凄い空襲でやられて、凄かったんですよ。小林とかあの辺も爆弾が落ちて、凄かったんです。ヒューードカーンって。それだから、何とか向こうに帰ったら今度3月9日の大空襲で、だから二回(空襲に)遭いました。

爆弾の後家族幾人かで見に行ったら、大きな大きな穴が空いていて、これは500kg爆弾これは250kg爆弾って、穴の大きさでわかりました。田んぼの中であっちの方であんな大きな500kg爆弾だよなんて、恐ろしかったですね。生きた気持ちしなかったです。でもね、ここまで生きられたことは本当に毎日感謝です。ありがたいと思っています。全てに。

寝ていたと思ったら、空襲のサイレンが鳴って、空襲だということで起きてすぐに前の防空壕に入って庭の防空壕。あの辺は低くて、防空壕に水が出てくるんです。でもしょうがない。何とか防空壕に入ったんですね。見ていたら焼夷弾が花火のように落ちてくる。目の前の自分の家も、メラメラメラメラこのくらいの筒がばーっと。ちょうど防空壕の上に落ちなかったから助かったんですね。いつもそう思うんです。防空壕のところに来てしまえば突き抜けていた。瓦屋根突き抜けて畳に刺さってみんな燃えていたけれど、防空壕のところに刺さらなかったから運が強かったんだね。

ですが、もうここまで生きて語る人も居なくなっちゃって。私が3月9日に焼け出されてこっちの学校に転校したんですが、今でも近くの施設に同級生もいますが、その人たちは地元の人だから、その前のことは誰も全然知らない。ずっと(私が)こっちにいた、と思っている方が多いです。

教員不足で小学校の先生にどうだ、と言われて地元の小学校の教員に

昭和20年の終戦の時には太田の女学校に来て半年でした。8月15日を迎えたんですが、夢中でしたね。
3月9日に空襲があって、その年の8月15日が終戦ですもんね。ラジオを聞いて、戦争負けたんだってよとか、戦争終わったんだってって言ったら、うそーー!ってなんて言って、終戦の(詔勅を)天皇が言ったの、忘れられないですね。
日本が負けたんだってって、うそ!なんて、みんな何だかわからないんですよ。何言ってるんだろうなと思って、後になって誰かが、負けたんだ、と!みんなわんわん泣いて、校庭が水で浸ってしまうのではないかというくらいみんな泣きました。

あれで戦争は終わったんですね。良かったです。本当に。戦争中は蝋燭もつけては明かりが漏れるということで、電気に黒い布をしてその下でご飯を食べて。薄暗くしてほとんど真っ暗ですからね。それが終戦、戦争終わったんだって!って、そこから電気つけたから頬骨が違って見えるようになったけど、あれは忘れられないですね。

でもそれから、18歳で太田の女学校を出て、教員不足で小学校の先生にどうだ、と言われて地元の小学校の教員になりました。それからの7年間、それは青春として楽しかったです。
7年間の教員生活で今の明子のお父さん、私の主人と出会いました。主人は中学校の先生でした。それで私は小学校の(先生)だから、子ども相手にちゃんちゃかちゃんちゃかやっていましたが、小中学校そんな訳で行きあいまして、昭和27年に結婚して30年に明子が生まれて、32年に弟が生まれた。それで昭和52年、主人が49歳の時に亡くなりました。

明子さん:弟は東京に出て行ったから。私が一緒にいました。私も主人亡くなったんです。39歳だ。私が37歳の時に。それで今また一緒になった主人がいるんですけど、向こうも教員なんですよ。

明子の方が波乱万丈。
でも(私の)青春はこっち来てからの7年間の小学校の先生で、とっても良かったですね。

明子さん:同窓会呼ばれるもんね。だけど生徒の方がみんな年を取ってしまって。

生徒が70いくつだろう。小学校5・6年ですか。
あの頃は教員の資格無くて、助教諭っていってやってました。百姓しながら通っていたのですが、二階で教えていて、うちの父が稲なんか刈って一生懸命持っていくのがそこから見えたりしました。大変だなあと、後押ししてあげたいと思ったことも随分あったんです。
でも楽しかったんですよ。6年生の時なんてもう。生徒連れて田んぼで色んな歌を歌ってね。そんな思い出しかありません。

商売の方が私に合っていた

本多明子さん(奥)

――先生が終わってからご結婚されて、お子さんが生まれて、そこからこの手芸屋さんというのはどういう風に始まったんですか?

父がこっちに帰って来てからは、百姓半分やって、お店もやっていたんですよ。学校のそばだったもので。それが身についちゃって。

私が教員していて、学校の先生と一緒になって、 – 早く逝っちゃたんですけどハンサムな素敵な人だったんですが-、でも主人の学校の先生だけの収入じゃ(少なくて)。
それで、私の父が商売やっていたものですから、ちょっと小さなものやりたいというので、主人が学校の先生、私がお店やってそれでお店が大きくなりました。
最初、雑貨屋を始めたんです、昔のね。

明子さん:三洋が来たのですごい賑わったんですよ。街が。

――お子さん小さい時に、すでにお店を?

お店での方が多かったですね。

明子さん:私は世話してもらった記憶無いもんね(笑)。

それで私、お店の方が合ってるなと思ったことありましたもん。
学校の先生は、結婚して辞めたんです。

――先生時代も青春だったんですよね。それより自分にはお店の方が性に合っている?

難しかったですよ。五年生六年生教えるのは、私には。校長に、あんたならできるって言われてやったんですけど、そのうちにね、先生は群大の教育学部出て、資格を持って入ってきた人達になったんですよ。
学校へ通って資格を取れっていうけど、そこまでして?と思って、そのうちに主人と一緒になって商売始めたら、商売の方が私に合っていたんですね。自分でそう思いました。

――どんなこと合ってるなって、楽しかったですか?お客さん相手とか。

商売ってこんなに面白いのかと思うほど売れたんです。
三洋(電機)がここに来た時に、寮生で若い女の子が溢れていたんです。みんな中学卒業で寮に入る。三洋の女子寮に一杯に。化粧品だの何だってうんと売れたんです。

明子さん:今でも来ますよ。おばさんおばさんて。おばさんはどうしてる元気なんだろう、とかって。

――看板娘ですね。

それで明子が日芸に行ってたのですが、ここから通ったね。

明子さん:帰り仕入れして帰ってくるんですよ。浅草橋で。

浅草橋で買ってきて、それでもう売れて売れてね。

明子さん:東京で東京のものを見てそのまま持ってくるから、売れるんですよ。高いものでも何でも。うちだけじゃ無かった。あの時は。

――どういうものが売れたんですか。

レトロ人形。

――雑貨屋とか文房具から手芸にいったのって、どうしてなんですか?

よく聞いてくれました。ここは、学校が近くにないんです。兄貴の家は学校のすぐ隣側だったので文房具屋をやっていたんですけど、私の店では化粧品をちょこちょこ並べたんです。一般化粧品を。そしたら売れるんですよね。あの頃何でも。

明子さん:編み物も教えたんだよね

編み物も。編み物でも刺繍でも、何だって手に触るものは、何でも。レース編みも。
それで一生懸命本読んで面白いんですよね。

――お店やりながらご自分でも、自分で色々工夫しながら研究されたんですね。

帽子なんかも夜考えて、主人がそんな考えなくてもと言っても一生懸命考えて、翌日その人にツバはこういう風になるといいとか、その人が喜んでね。

今でも忘れないですけど。本当に張り合いがあったんですよ。売れましたね、あの頃は。明子と一郎が大きくなるまで何とかそれでやっていけたんですよ。
主人が学校から帰ってくると、お店が人で一杯なんですよ。狭い店で。間に合わないので主人に頼んで、熊谷まで行ってここ行って買ってきてって頼んで、わかった!って行ってスクーターに一杯後ろに積んで買ってきてもらいました。
学校行って帰ってきてから、熊谷行って帰ってきて、それがまたその日に売れちゃうんです。クリスマスの音楽かかると思い出すんですけど、クリスマスものもうんと売れましたね。何でも売れたの。オルゴールでもなんでもね。

明子さん:私が東京に仕入れに行って、一週間後にはもう無いからまた行かないといけない。

そうそう、また行くの。みんな仕入れて、こっち送ってもらって一週間。このお店が水曜休みだから、毎水曜に行っていたね。

明子さん:この辺のお店はみんな売れたと思う。その頃は。

その代わり無駄にも使ったけどね。

明子さん:使ったよね。無駄なこともしたよね。今捨てているもんね、一生懸命。

オーバーなんか高いの買ってきたりね。せっかく行ったんだからって、仕入れをした店の隣の洋服屋さんで10万、20万するようなオーバーを買ってきて、自分で着てみたり。そのくらいしか喜びも無いし、楽しみも無いから。
何か行って買うのが楽しみで、仕入れをして、私も欲しいなと思って買う。こっち送ってもらうと、みんな売れちゃったのね。

明子さん:売れたね。それでこの家(店舗)が建ったんですよ。

お金借りてやっちゃうんだって、銀行から借りて返し終わるまで一生懸命働こうって張り合いができた

このうちをね。それも何千万かけて。
主人は早く死んじゃったし、どうしていいかなと明子に相談すると、一言「やっちゃんさあ」。やっちゃえばいいじゃないっていう一言。よし、って。

――凄い親子、凄いコンビですよね。

でも、亡くなった主人のことを、死んじゃった、どうしよう死んじゃったって、何年もぐじぐじぐじぐじ、考えていたんです。泣いていたんです。
明子に「お父ちゃん死んじゃった、どうすればいい」っていったら、「死ねばいいじゃない、自分でも。穴掘ってやるよ」って。そういうこといって、腹が立ってね。

明子さん:あんまりうるさいからね。

そんなこというならと思って、私も人が変わったようにね元気になっちゃった。それとね、無理に人間ドックに連れていかれたんですよ。行きたくもない。そしたら医者が、あなたは丈夫ですって。ずっと生きますって。

――当たっていましたね。

それには張り合いがない、だからお金借りてやっちゃうんだって、銀行から借りて返し終わるまで一生懸命働こうって張り合いができたんですよ。返済のための。それが8年か10年。よくやったよね。

明子さん:8年で返したんじゃないっけ。

主人が昔から、金だけは銀行から借りるなって言っていて、そう思っていたんですけど、借りて一ヶ月に30万か20万か返すと。
それを十年間で返せるかなあどうかなあって、その間は夢中で生きがいがあった。

明子さん:売れたんですよ本当に、大泉町は。

この家を建てたのは昭和60年。まだまだ景気がいい時代でした。

――三洋のおかげで?

明子さん:そのおかげで。いっぱい若い人たちがいた。

いろんな国の人がいても、あまり違和感がない

――その若い人たちはどこから来ているんでしょうか。

明子さん:私が覚えているのは沖縄とか、沖縄の名前が多かった。

沖縄多かったね。

明子さん:あとは群馬。近いところで。

――やっぱりそういう子たちは、寮に入って楽しみは買い物だから、そうやっていっぱい売れたでしょうね。

そう。国へ送ったお金で残ったの、みんなうちに来て使ってたね。夢のような、オルゴールから化粧品から。
うちの提げ袋があるんですよ。紙のね。それ皆んな持って歩くから、まるみやで買ったっていうのがわかるほど有名になっちゃって。

――おしゃれな。
街の真ん中に小さな店だったけど、あんまり売れるのでここ(今の場所)に買って出たんだよね。

――今いろんな外国の人多いですけど、昔からいろんなところから、人が来ていたんですね。

明子さん:出入りしていましたね。外国の人でいえば、最初の頃はブラジルの人も随分来ていたんですよ。だけど、震災で帰りましたね。だいぶ。

帰っちゃったね。

明子さん:日本怖いとか言って。

日本にいてよ、帰らないでって言ったけど、日本怖いって帰っちゃったんですよね。だけど、アジア系、ネパール、パキスタン、インドなど、そっちの方の人が来るようになって。

ネパールの人が親しくなってね。カトマンズのお土産なんか買ってきて。

明子さん:あとはロシア系も多かったよね。

――そこにネパールの旗がありますね。

明子さん:お母さん、吊るしておこうとか言って。いろんな国、楽しんでます。地図もらったの。これ持ってどこ?って聞く。

――お店に来店した人の国のリストがありますね。

明子さん:お母さんですよ。いちいち聞いていたの。どこから来たんですか?

そしたら50何カ国、随分来ているんですね。

明子さん:ここ昔、進駐軍が居たんです。だから私が小さい頃はアメリカ人がいたんです。
アメリカの施設なんかもあったので、いろんな国の人がいても、あまり違和感がないね。

明子が卓球やっていて、韓国の人が居た。

明子さん:来てた来てた。今思うと、サムスンですかね。あの人なんかももう偉くなっているよね。三洋に習いに来ていた。体育館で一緒に卓球やっていたんです。
大泉というのは、私なんかもなんでこんなに外国の人が来るんだろうと思うほど。

母親に捨てられそうになった、地域の方の宝物?フィギュアも。

――ここを頼りにしてくるお客様は多いのですね。

明子さん:喋りに来る人多いですよ。90歳でどうしてしっかりしているから、私もまだ大丈夫かなと思って。

――あと30年は。人生100年といいますし。

明子さん:それにはあちこち丈夫にしておかないとね。

だから私が元気でいるということは役に立っているんだから。向こうから通っているんだもんね。

――外国の方で話にいらっしゃる方も。

明子さん:外国という感覚が無くなっちゃった。喋っているうちに。二世かな?とか。
手芸の材料買いに来る人で仲良くなって喋っているうちに、アマゾンから来たんですとかね。その人がレジやっていたかな、ブラジルのお店で。

いつかブラジルって言ったら、よく聞いてくれたってうんと喜んで抱きついてくれた。

明子さん:喋りたいんですね。みんな。

こんなに喋らせて貰って良かったね。聞くばかりで。

今日は喋らせてもらって、最高の日

よく聞いてくれた、今日嬉しいよ。最高の日。

――感情を表現されるのが上手ですよね、周りがポジティブになるような。嬉しいとか楽しいとか。

健康じゃないと。体調が悪かったら、いい顔しないで自分憂鬱になってしまうんですよ。今は明るくなった。

――私が60、80過ぎになった時にはこれくらいはつらつといられるかなと思いながら見習って。

でもみんな喋りたいんだよ。良かった今日は喋らして貰って。ありがとうございます。

――ありがとうございました。

テーマの一つが、「ローカルなグローバル」。

人は昔から世界中の国境を越えて移動をくりかえしてきました。友人・親戚をたずねて、夢・希望を追い求めて、あるいは危険や貧困を逃れて。辿りついた地で、新たな人と人の出会いがあり、新しい物語が生まれていきます。高校生の視点から日本の中のある町に存在する国際社会に向き合います。

ここで登場した、本多清野さんも、作品作りに関わってくださっています。
ぜひ、会場までおいでください!
(関連のトークセッション、特別講義もあります。)

http://view3.info