「ローリーホーリーオーバーサーカス」で、脳の回転数が振り切れた – 雨宮庸介(1)

アーティストインタビュー by キュレーター高校生

びゅー VIEW ビュー展「心理学、実験中!」を担当するアーティストは、雨宮庸介さんです。ベルリンに在住し、世界の多重な在り方を感知させる作品を、彫刻、ビデオインスタレーション、パフォーマンスなど、さまざまな媒体を用いて制作している雨宮さんに、キュレーター高校生からインタビューしました。
第1回は、アーティストという職業を選ぶに至った経緯や、製作中の思いについてお伝えします。

インタビューされた人:雨宮庸介|美術家
インタビューした人:河合菜緒、鮫島亀親(キュレーター高校生)

アーティストは、時として「美術という概念」を、もしくは社会の在り方そのものを変えたり予知したり、物事の枠組み自体に問いかけたりすることさえできる

――そもそも、なぜアーティストという職業を選んだのでしょうか?

僕は、茨城県の水戸市というところで生まれ育ちました。その水戸に、水戸芸術館っていう施設があったことが後にアーティストという職業を選ぶ一番の要因だった思います。インタビューアーの河合さんの地元にある金沢21世紀美術館や、鮫島さんの地元の東京都現代美術館のような現代美術に特化した美術館ですね。 その水戸芸術館(以降:水戸芸)というのが、日本で一番最初の公立の現代美術専門館です。

僕は小さい頃サッカーがそこそこ上手でして、そこで市の選抜みたいなところでイケイケでサッカーをやっていました。そのサッカーのために、週末に通っていた五軒小学校のグラウンドが更地になって、なにが建つんだろう、と思っていたら水戸芸ができました。その数年後、高校サッカー最後の大会で負けたあと、国道を挟んで水戸芸の向かいにある美術の予備校に通い始めることになり、そこからとても近かったので、予備校に通いながら水戸芸の展覧会を毎回チェックしに行きました。その時代にジョン・ケージやジェニー・フォルツァーやロバート・メープルソープ、などの展覧会を体験して、あぁ、この世の中には凄い変なやつがたくさんいるんだなと思いました。意味はよくわからないので、ワクワクしながら「何してんだろうこの人たち?」って感じでした。

当時は美術や美術史の知識も無かったので、「美術」といえば印象派とかの絵とかだと思っていました。それに対して、いわゆる「現代美術」のようなものって何をしているのかよく分からない。でもすごく一所懸命に世界のことを考えている変なやつらがいるなってことだけは認識することができました。それでジョン・ケージの展覧会の時に人生で初めて展覧会のカタログを購入して解説や作品のバックグラウンドを勉強してみました。また、今思うと、当時は水戸芸って場所が日本全国で見ても存在が斬新だったおかげで、美術手帖という雑誌なんかは、水戸芸の企画ごとにその特集を組んでいたのです。ですので、その時の美術手帖もジョン・ケージ特集でした。その中を読みすすんでいくと、4分33秒とか・・・

――何も演奏しない

そうそう。ピアノ開けてから、閉めるまで。そのCDとかを買ってみたりしましたが、要するに、ほぼ何の音も入っていないCDです。それでどうして良いのかわからず、他のノイズのやつとか買ってもさらに何だか良くわからないけれど、とにかく徹底的におかしい人だなぁと思いました。
その時の展覧会の内容は、ジョン・ケージの死後すぐに開催されたもので、チャンスオペレーションという偶然性を用いた「機構」が、展覧会の構成を決定し、毎週末にそれに従って展覧会の様相が変わってしまう「ローリーホーリーオーバーサーカス」という展覧会でした。それを地元の水戸芸で体験した時、僕の脳の回転数が振り切れるくらい上がった覚えがあります。それまでに、サッカーや、勉強、ほかには社会的に悪いとされること、色々なことをやっていたけれど、何かこう全く別種類のガーンと衝撃を受けたというか、なんだろう、これはとにかく面白いなって。

世の中には、凄く成績優秀なタイプの出来の良い人が真っ当に働いていく方法も、世界を動かす方法としてはあるだろうけど、当時の僕から見たジョン・ケージのようなおかしな人達が、ちゃんと「たわごと」を技術化して口に出し、それが展覧会等の形をとって、ソーシャライズしてリアライズすることって、わかりにくい側面があったとしても、きっと社会に必要なんだろうなって実感を勝手に持ちました。一見すると、形にはなりにくいけれど、例えば僕が勝手に衝撃を受けて、勝手に色々なことを考え始めたのと同じように、少なくとも「伝染」を仕込んでいくことはできると思って。社会へ広めて行く効率みたいなことはわからないけれど、なんだかアーティストってすごいいい仕事だなって思ったのはその時でした。

ただ一方で、大事なところは、うみだされる美術の99%はゴミで終わるってことです。「ごみみたいな物をアートとか言って」という批判を聞くこともたまにありますが、違う意味でそれは当たってます。未来からみれば、ほとんどのアーティストもごみだし、ほとんどのアーティストの作品もごみだし。みんながみんなそんな素晴らしいはずはなくて、素晴らしいものに出会える確率もまた、すごく不確実なもの。それは仕方ない。みんながみんなミケランジェロやデュシャンになるはずもない。いやマジでほとんどゴミだけど、ほとんどゴミになってしまうにも関わらず、それでもそこにアプライしていくのもまた凄くかっこいいなって。僕が作っているものもたった100年後には、ほぼほぼの確率でゴミだから。
でも分からないですよね。美術家人生の中で1個面白かったら、人類にとってもの凄くラッキーじゃないですか。僕の人生そのものなんて人類史全体から比べると大したことないわけですし、大きな資源も使わないし、大きな力も使わない。要はエントロピーを加速させないとか言うんだけれど、 とにかく、ごく個人的な出発点であったとしても、技術化された野蛮なチャレンジが、時として「美術という概念」を、もしくは社会の在り方そのものを変えたり予知したり、物事の枠組み自体に問いかけたりすることさえできる。凄く良い職業だなと思っています。

――アーティスト、作家として活動していて一番嬉しい瞬間とはどんな時でしょうか?

自分がすごく気にしているようなことを観客のみなさんが考えてくださったり、 脳の回転数が上がって、僕が考えていないことまで含めて勝手に色んなことを考えてくださること。そういう予期しないエフェクトが発生してしまうことは嬉しいですね。

実際的なことで言うと、買ってくれることはやっぱり嬉しいですね。自分の経済が助かるのもありますけど、買うってことは、普段、限定的な期間である展覧会という鑑賞を超えて、半永久的な鑑賞の権利を買ってくれることになりますので。僕も普段から自分で小さい作品を買うけれど、本当にいらない作品は100円でもいらないものです。でも欲しいと思う作品は、やっぱり高くても欲しいですよね。買えない時は買えないけれど、ただやっぱり作品を買うことは良いですね。実は高校生のちょっとしたバイト代くらいで買えるものもたくさんありますので、一度買ってみることをおすすめします。そして、買うってことは、自分の手元に来るということなので、しばらくは作品のイメージとか文脈に付き合わなくちゃいけない。じゃあそれに耐えうる強度がこの作品にはあるのかみたいなことを買う時に考えなきゃならないから。勉強としても購入することは楽しいと思いますよ。

――一番つらい時とはどんなときでしょうか?

えっと、このインタビューで「言いたくないです」って、ありですよね?そこは言ってもしょうがないという感じです。というか言い出したら、楽しい時ってのと同じぐらいいっぱいありすぎるっていう所もありますね。何だろうな、別にそれを辛いと思うのかという話になってくるから、ややこしいのであまり言いたくないですね。ないって言うのもまた変だろうし。

「慣れないようにする」ことが、僕にとっては一定のクオリティを担保できるシステムなのかな]

――雨宮さんが作品を作っている最中に息詰まることはありますか?息詰まって悩んだときどうしていますか?

たくさんありますよ。ぽんぽんとアイディアや解決策が勝手に出来てしまうこともあれば、どんなに頑張っても一向に良くならないようなこともあるし、未だにどうしてなのかわからない。原因がわかれば解決できるとは思うけれど原因がわからないということは、テーマの立て方が悪いのか、考え方が悪いのか、作業方法が悪いのか、作業台が悪いのか、アプローチが悪いのか解らない時が一番困る。そんな感じで行き詰まる時はありますよ。

――そうなった時に解決するためのルーティンは何か決まっていますか??

僕らの仕事は、同じギャラリーで発表することをのぞくと、基本的に毎回仕事相手と仕事場所が違います。ですので出てくる問題自体もいつも同じではないので、なかなか決まったルーティンはないですね。ただ、大体そういう時って、決断が重くなってくることが多いです。そんな時に一番良いことは、気軽にやってみることでしょうか。例えば選択肢は2個あれば良いですが、10個全部やってみることとか。でもそういう時は、なかなかできないことが多くなるものです。そうは言っても展覧会の初日は来るので、どうにかするしかないのと、そうならない為に、良い時間をスタジオで過ごすことですかね。スタジオでたくさん成功と失敗をしておく、というのが結局の解決策かもしれません。

それと直接関係あるかわかりませんが、僕は展覧会開催に向かうある期間に、人から言われることをすごく気にしてしまう時期があります。それが専門家でなくても、通りがかりの人でもですね。それ以外の時は基本的にあまり人の意見に左右されたりしないのですが。なんででしょうね。そういうソフトシェル(カニなどが脱皮したばかりの柔らかい状態)の状態に「いまいちだね」なんて言われたら物凄く弱いです。でもソフトシェルみたいにならないといけない時期があって、ならないと作品の面白さが到達できないような時もあるのです。身内に言われる「いいじゃない」の一言で急にすごく良くなったりもしますし、「うーん」と言われただけで駄目になったりもします。その、柔らかい一瞬、大事だけどコントロールするの結構難しいですよね。

――ではスランプになった時の克服方法は特に決まっていなくて、毎回作り方は変わるイメージでしょうか??

そうですね、これだけ長くやっているのに、お恥ずかしい話、スランプになった時の克服方法なんて開発できていない気がしますね。どちらかというと、スランプになったかどうかさえ判定ができないことのほうが多いと思います。スランプってそもそもどういう状態なんでしょうね。
まあ、ただ、スランプのような状態に際して、ずっと同じメディアでやっている人はきちんと前進できることが多いのではないかと想像しています。ずっと木を掘って仏像作っている人とか、油絵だけ描いているという人は、自分の筆とこれくらいの固さで、とか身体感覚でいろいろなことが判定できる材料があると思います。それはうらやましく思うこともあります。ただ僕は「そもそもこれで良いのか?」と根底から毎回考えなくてはならないシステムにできるだけしたいと思うから、いささか反語的ではあるのですが「慣れないようにする」ことが、僕にとっては一定のクオリティを担保できるシステムなのかなとも思っています。

――いつもひとつのテーマを持って作品を作ってらっしゃるところが、凄く印象深いです。

そうですか、人によっては逆に思っているかもしれないですね。人によっては作品に使用するメディアを固定しているほうが分かりやすいですよね。だってずっとアニメーション作っていることや、ずっと刺繍の作品を作っているとか、そういう人のほうが一貫しているって思われているんじゃないかな。
でも、そういう、メディアとか美術家としてのイニシャライズとかの問題と僕の一貫の問題はそもそも違う気がしています。やり方としては、その都度、作品を「つくること」と、それを「みせること」の意義を考え、生成されたものへの最短距離として、使用するメディアを決定するというやり方です。

パフォーマンスやビデオインスタレーション、りんごの彫刻とかはある種、みんな等価だと思っています。

――自分の代表作といったらたらどの作品だと思いますか?

うーん、代表作とかって他の人が決めることだと思っていますので答えにくいですが・・・。また僕としてはどんな作品でも、その都度たくさんのことを考えて、全ての作品で何かしらのチャレンジをしていているから、選ぶのがすごく難しいです。
とは言え「人が一番認識している」って意味で言うと「溶けたりんごの彫刻」が多いかもしれないですね。でもそれって割と単なるシステムの話でもあって、プレスリリースとかに候補の画像を数枚提出した時に、キャッチーなものが選ばれるものなので。雑誌や新聞では画像はそんなに大きくないわけだし。そもそもパフォーマンスやインスタレーションなどは全体を認識するのに時間の経過が必要とされるようなものなので、一場面だけ切り取って1枚の写真を選んでもあまりよくわからないと思います。何かさ、人も小さく写っているし、いったい何の場面だか想像しにくい。そうすると5、6枚写真を提出しても、大体「溶けたりんご」の写真が使用されている、というシステムの話かもしれないです。
だから、僕としてはたまに違うのもいいなというのもあるけけど、溶けたりんごが一個入っていると、大体それになっちゃう。だからメディアに一番多く出ているという意味では、代表作はそれじゃないかな。

作者である僕としては、パフォーマンスやビデオインスタレーション、りんごの彫刻とかはある種、みんな等価だと思っています。例えば林檎をそっくりにつくることって、コピーというよりも翻訳に近いんです。それってどういうことかと言うと、林檎に起こった物語を彫刻というメディアの表面に定着していることでもあります。その物語の読み込みは間違っててもいいのですが「どこの国でどんな環境で花が咲いて実がついて、どんな農業によってモデリングされてカラーリングされて、貯蔵されて流通されて自分の手元にあるか」という物語を彫刻の表面に定着し直すことなのです。通常、僕らにとって林檎とは「点のある赤い果実」程度の認識しかないのが普通ですが、では、「その点がどんな理由で存在して、どこが一番大きくて、どこが一番間隔が広くて、それはいったいなぜなのか?」を、即答できないと林檎はつくれないのです。と、いう意味で翻訳と言っています。ちょっとややこしい言い方をすると、ストーリーとストラクチャーを表面に翻訳していると言い換えることもできます。なので、「林檎のパフォーマンスを写し取っているようなもの」もしくは「林檎の物語を翻訳するパフォーマンスを定着した物質としての彫刻」という設定として作っています。

林檎の彫刻には「あの人の赤はこの赤なのだろうか?」みたいな「心ってなんだろう?」というような問いを林檎の彫刻1個で答えることも、僕はできると思っています。結構シュッとしたした感じになると思いますよ、真ん中に1つ林檎の彫刻があるだけで。ただ、それだけと言うよりも、もうちょっと色々と今までやりとりしてきた流れを入れたいなと思っています。ただ、パフォーマティブな部分とか、人間の存在みたいなものを入れるとしても、林檎の彫刻と同心円を見せることと考えています。

第2回に続く


河合菜緒(キュレーター高校生/インタビュアー)

鮫島亀親(キュレーター高校生/インタビュアー)