この世界が面白いということを、過剰なジェスチャーで伝えるのではなくて、普通に伝えたい – 雨宮庸介(2)

アーティストインタビュー by キュレーター高校生

びゅー VIEW ビュー展「心理学、実験中!」を担当するアーティストは、雨宮庸介さんです。ベルリンに在住し、世界の多重な在り方を感知させる作品を、彫刻、ビデオインスタレーション、パフォーマンスなど、さまざまな媒体を用いて制作している雨宮さんに、キュレーター高校生からインタビューしました。
第2回は、作品づくりのテーマや作品の作り方など、そして、展覧会を一緒に作った高校生の世代へのメッセージもお伝えします。

インタビューされた人:雨宮庸介|美術家
インタビューした人:河合菜緒、鮫島亀親(キュレーター高校生)

「主体の境界」についての話をすることが多い

――作品づくりのテーマについて、もう少し聞かせてください。

基本的には「境界」− 2つとか3つとかの、多重な「もの」とか「こと」とか、物事の境界を問い直すような作品を作っていることが多いです。リアルとフェイクなんていうトラディショナルな切り口もそれらのうちの一種類です。その中でもよく言っているのは「私たちはどこで始まり、私はどこで終わるのか」というような「主体の境界」についての話をすることが多いです。インターネットに使役された・・・とか、もっともらしく話すことが多いでしょうか。日本で作る場合はそういうことをストレートに言うけれど、ヨーロッパで主体性について語る時には少し工夫しています。そうじゃないと一神教の国においては本当おかしい人だと思われるので。日本人だと日本語の構造上、主語が省略できたりするので主体性の揺らぎみたいな感覚を拡張して語ることが比較的可能だと思いますけど、ヨーロッパだと基本的にはありえないので。ただ同時に、インターネットの普及以降、その辺の主体性の揺らぎみたいなことを洋の東西をわけずに語れる可能性は大いに拡がったと認識しています。

――なるほど。

オブジェクトとサブジェクトの境界みたいなことと言い換えることもあります。そもそも「私と私たち」のことって、I / We / They のうちの I / We にあたることですが、一般的に言って We / They の方がテーマとしては扱いやすいし、そこに焦点を絞った作品が世間的には多いです。というかそういう作品ばかりと思うことさえあります。なぜなら社会問題とか政治とはWe / They の間に発生しますし。むしろ、そこを扱うことは近年の美術の中で思いっきり流行です。流行ものですね。僕はあえてそこに照準をあわすことはないのですが、どちらにしろ、そういった境界そのものを、テーマにすることが多いです。

――アーティストを長く続けるコツは何ですか?

コツですか。その設問に言いたいことがあるとすると2つあって、1つ目はそのコツ僕が聞きたいというのと、2つ目はどこからが「続けている状態」なのか設定が良くわからないですよね。
年間何回展覧会をやったら「まだ続けている」というのかわからないので答えが難しいですね。ある人から見れば僕は既に「続けていないアーティスト」と言う人もいるだろうし。「世界で1億人に知られているアーティスト」ではない限りは「続けている」とは言えない、という前提がもしあるとすれば、僕は全く「続けられていない」人だと思う。というかデビューもしていない人に入ると思います。

――アートを作っていくうえで、ベルリンに住むということはどういう意味を持つのですか?

これだけの情報化社会で、飛行機代もどんどん安くなっている現代においてはあんまり関係無いんじゃないですかね。旅行でも住むのでも、だいたい20年前の、東京からの「九州旅行」や「九州移住」と同じぐらいじゃないですか。
ごくごく個人的な住む意味を言うなら、日本に居るよりも「つくる」のと、それを「みせる」ことのバランスをとりやすい、ってことぐらいでしょうか。
他に違いがあるとすると、ここでは自分が外人であるということくらいですかね。

もし美術をやる意義の差異みたいなものに触れるとしたら、現在、世界で「Art」と呼ばれているものの歴史って、遡って行くと当然日本の古い美術には辿り着かず、ギリシャとかローマの頃から脈々と流れているもので、それの最新のものが、いわゆる現代美術といわれるものです。日本にも美術の歴史がありますが、世界で言うところの「Art」とはやはり違っていて、誰がどう言っても「Art」はヨーロッパが「おおもと」です。そういう意味ではヨーロッパに住むことで、その緊張感を感じていられるのは無くはないです。ただ、作るものそのものとはあんまり関係無いですね。ヨーロッパに住んでいれば〇〇が自動的にできる、なんてことは何もないです。

――作品を作ること、構想を練るために、普段から何があっても続けている習慣はありますか?

ずっとやっていることは、なんだろう、、、ああ、2002年から16年間ずっと4つの石を持ち歩いていることですかね。2014年に始めたプロジェクト「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」のアイディアの源泉となった「習慣」、もしくは単なる「遊び」です。その1300年のプロジェクトを始める前に、すでに12年くらいプロジェクトと関係なく4つの石を持ち歩いていて、それを今も持っているということになります。子どもが同じようにポケットに石を持って帰ってしまうことってあると思うのですが、ふつうは2日ぐらいで捨ててしまうところを、大人パワーで「捨てないでみる」ってことをしたのがきっかけの、本当になんでもない習慣、というか遊びでした。ですので、元々それがプロジェクトになるつもりもなかったです。まあ人生に無駄なことは何も無いなって今となってはあらためて、そう思います。これ言うとややこしいのであんまり言わないようにしていますが、人に「持ち歩く」というお願いをしているぶん、初代の自分にかぎってはその「持ち歩く」という労働をするべきだと思って、1300年の石のプロジェクトの6個の石の「隣にあった石」を1つずつ持ち歩いています。だから、期せずして前出の4つとあわせて10個の石を毎日持ち歩いてる事になります。
あとは2012年から、人生最終作の準備のひとつとして、ある部分だけ髪の毛を伸ばし続けていること、それぐらいですかね。

アーティストとは、ある種、一番まっとうな人

――自分の中でのアーティストとはどんな存在ですか?アーティストって変わった人という感じはありませんか?

僕はアーティストとは、ある種、一番まっとうな人だと思っています。なぜかというと、社会的には属さなきゃいけないとされている共同体に必ずしも属さなくてもいいので、その意味においては「このようにふるまわなければならない」という先入観をはずして物事を眺めやすい、ということです。 ただ、その都度の社会的正義とズレることも必然的に発生するので、その時点で「もっともだ」と思われていないことが多い。けれど、社会の価値観なんて必ず変わってしまうわけです。例えば戦時中の戦場なんて人を多く殺すことが正義だったわけです。しかし今は当然ながら人を殺すと騒がれる時代です。そういう移り行く流れに流されたり反抗するというのではなくて、ある種、解離したところに居やすいシステムだと思います。戦争画の話などを始めるとややこしいので、ここではやめておきましょう。ですので、期せずして、普遍的なことに抵触しているのはアーティストの方なのだと思うことがあります。

この前、展覧会実行委員のお一人には話しましたが、日本の企業はアーティストにもっと無駄金を払ったほうが良いですよって。僕にという意味ではなくて、一般的に。企業が使っているうちの僅かなお金で十分だから。
例えば昔のアメリカの企業が行っていたように、アーティストを月に一回とか会議に呼んで、何か発言させる。その中からこれが良いというものを拾う。その100回くらいの会議の中から、企業としてなかなか掴めなかったものが掴めたら、その分の経費1千万とか1億とか安いと思いませんか。

そのあたりのアーティストの活用の仕方がもっと上手い社会だったらなと思うことはあります。アーティストは結局のところ「問い」をつくる仕事だから、「答え」を出す仕事をする人達にとっては、見方によっては宝の山のはずです。だからこそチェックしていないのは駄目だなぁって思う。優れたデザイナーや社会学者って現代美術の展覧会を凄くよく見ている。前出の通り、99%はゴミかもしれない、でも、ゴミからアイディアもらえたらそんな良いことはないよね、ということです。アイディアって言っても、何かのロゴのアイディアとかじゃなくて、こういうところに注目したら面白い隙間があるな、とか、こういう角度で見るとより豊かに見える、というようなことがいくらでも落ちているわけだから、それを使わないのは社会資源としてもったいないと思います。

――「アーティスト」という職業の《使命》とは何だと考えていますか?

今まで喋ってきたことだと思うけれど、未来に寄与することだと思っています。未来に寄与するためには、とにかく作品を体験した人の脳の活性を上げることが必要だと思う。「考えるべき魅力のある継続性のある問いをどうやってたてるか」ということが平たく言うとアーティストの使命だと思っています。もちろん、良い答えはびっくりするし、充足感があるけれど、消費に耐えて継続するような問いは優れた問いだと思うので、やっぱり「質の良い問いを立てて社会に貢献すること」ではないでしょうかね。ヨーロッパのことで言うと、美術史をアップデートするみたいなこともその《使命》に入ってきますね。

ずっと会場にいるような仕事を時折しているとわかるのですが、有名人もやっぱり現代美術の展覧会見ていますね。元々現代美術のコレクターには精神科医が多いですが、同じようにIT関係の人も多いですね。コレクターではないけれど、テレビ局のプロデューサーとかもよく観てますよね、展覧会。
なんだか話が変わってしまったけれど、「アーティスト」という職業の《使命》とは、理想的には「良い問いを立てる」人。そういう人は社会に必要だと思います。

びゅー VIEW ビュー展では、高校生がキュレーターとして参加しました

世界は、面白いと思い始めたら、隅から隅までいくらでも面白いはず

――キュレーター高校生を見て、自分が高校生のころと違うなと思った点はありますか?

全然違う。全然違うなあ。言葉遣いも、考えていることもちゃんと言えるし、こうやって話していても興味を持って面白がって聞いていてくれるし。
僕はそんなことは全くもってできなかったですね。僕の当時の興味は、部活とお酒とタバコと異性くらいしかなかったです。あとはなんか、よくわからないけどイラついていましたね。いや、よくわからないからイラついていたのかな。どっちだろう。あと本当にやらないといけないことは照れてやらないし、やりたかったことを誰かがサジェスチョンしてくれたら「言われたからやりたくない」とか、普通の駄目な若者でしたね。
勉強も不得意ではなかったけれど、小学校から十何年やってきたサッカーが試合に負けて、急に次の日から興味をもってすることがなくなった。それで次の日から始めたのが美術でした。そんな感じで偶然やっている感じもあるので、もう一回人生があったらもう一度美術に関わるかどうかはわかりませんね。ただ、この仕事が本当に面白いというのは間違いないです。話を戻すと、まあとにかくキュレーター高校生と僕の同時期とは全然違いますね。

――今作ろうとしている作品を通して一番伝えたいことはなんですか?

まだ作品をつくってないから言いにくいけれど、たぶん、この世界が面白いということを過剰なジェスチャーで伝えるのではなくて、普通に伝えたいというところでしょうか。「冷静に面白いことを染み込むように伝える」だけで十分世界は面白いっていう静かなポジティブさを使って。普段伝える術がないから世界はシーンとしている気がしてしまいますが、面白いと思い始めたら、隅から隅までいくらでも面白いはずです。

よく一緒に作品を作っているアーティストがいて、その時の感想で一番多いのが「目と耳が凄く良くなった」という感想です。「あの時のあなたのアクションが素晴らしかった」というよりも、そういう感想聞けると嬉しいですよね。だって目と耳が良くなったという感想が示唆する未来はある種究極で、極端な話、そうなったら展覧会とか行かなくてもいいじゃない。映画も見に行かなくてもね。だから何かを「結果として」見せるというよりは、この世の中を見せる、もしくは「この世の中を面白く見れるドライバーをインストールする」ことのほうが狙いなので、そうなってくれたら嬉しいですね。

――この世代に見せたい、ターゲットはここにしたいというところはありますか??

ないですね。多分僕が面白いと思っているこの世界の発見や再発見みたいなものは、あまり経験とか年齢とか関係無いのではないかと思っています、それは綺麗事ではなくて。ただ厳密にいうと、黙って人の話を聞ける世代よりかは上だと思います。10才くらいから上を一応対象にしていると思います。
というのも、それより若い世代は、勝手に世界は楽しいと思っていると思います。そういう子供の頃の「無邪気に楽しい」を超えたところでも、面白がり方があると信じていることが僕は好きだなと思います。

僕の10代にアドバイスがあるとすれば、無駄でも良いからもっと色々なものを観た方が良いよ、という

――雨宮さんはひとつのメディアに拘らず作品を作られますが、それはなにか意味があるのでしょうか?

すでに前出した話ですが、はっきり覚えているのは、水戸芸でみたジョン・ケージという人の「ローリーホーリーオーバー サーカス」という展覧会の鑑賞経験が非常に大きく影響しています。その展覧会はジョン・ケージが作ったチャンスオペレーションという機構みたいなものが偶然を作れる、ということを言っていてーー偶然をうみだすと決めている時点で本当の意味では偶然では無いのですがーー偶然をベースに展覧会が作られていました。だから彼はプライマリーな作者ではないんですね。自分の好き嫌いなどの趣向からわざと離れようとしている状態です。ようするに、素朴な制作者というよりも、世界を包摂しようとするその意思自体を作品として展示しているわけです。と、同時にキュレーションという意思を違うフェーズに持って行ってしまおうという野心も含まれていたものと僕は理解しています。その大づかみで世界そのものをキャプチャしてしまおうとする手つきと佇まいが、若い頃の僕の中に刷り込まれて「美術をするということ」はそう言うことだと勝手に思っているのではないでしょうか。その意味においては僕はまだまだだと思うことが多いです。昔よりは少しはできるようになってきたのではないかとも思いますが。

――一個のことをやっていく能力はどうでしょう。

僕はたぶん根が暗いからスタジオで誰とも関わらずコツコツずっとやっていくことが好きです。それで本当は満足すべきだったけれど、一番最初に僕が美術に憧れた風景というものがジョン・ケージの展覧会だったから、美術はあのくらい広範囲を射程にした、あきれるくらいのものじゃないないと駄目だと心のどこかで信じてしまっています。
だから一個一個の作品はただのパーツであって、実はもっと複雑な全体があって、ある法則によってコントロールされている。作品には、そんな関係が必要なはずだという思い込みが僕にはあるのではないかと思います。

だから、ハイティーンの頃にカッコイイと思ったものにはよくもわるくも囚われるから、たくさん色々なものを見ると良いと思います。僕は自分の人生が好きだけれど、僕の10代にアドバイスがあるとすれば、無駄でも良いからもっと色々なものを観た方が良いよ、という、ごくごく普通のアドバイスですね。何で自分がこういうこと思っているのかなって考えると、やっぱり辿っていくと、美術のような「大人のメディア」を使い出した僕の一番のルーツは、やっぱりその14〜18才あたりで格好いいと思ったものや「あっ!」と思ってしまったものに支配されるっていう部分は結構あると思うのです。

――普段作品はどんな流れで作っていますか?

基本的には3通りくらいあります。
まずは「スタジオで作ることができたもの」それができあがって、展覧会に出したいなと思っていたところに、展覧会の話がきて出品する場合です。

次に「展覧会の話が来てそれに対して、全く新しいものを作る」やり方ですね。

あとは「やり始めたけど終わっていないもの」。例えば木炭デッサンのシリーズみたいなものは、2012年からやっているけれど、全然終わらないというか終わり方がわからないです。
そういう、依頼もないのに作り始めて、終わってさえいないものもあれば、言われてから作るものもありますね。

今回のこと(びゅー VIEW ビュー展)に関しては、できるだけ事前に考えないようにしようとしていたパターンですね。というのも、高校生たちと会って、自分の期待していなかった面白いことが得られるかもしれないというところに、この仕事を受けた理由のひとつがあったからです。今の時点(2017年12月、展覧会は翌3月)でも、決めたくないと言えば決めたくないですね。もっと後に決めたいです。なぜかって、高校生が急に面白いこと言うかもしれませんから。まだ。

――最後の質問です。雨宮さん自身のポリシーは何かありますか?

ポリシーというかどうかはわかりませんが「そもそも世界は面白い」というところが僕にとっての軸なんじゃないかなと思います。ついつい「否定」や「敵対」「対抗」によって物事を前にすすめることが多くなりがちな世の中ですが、「この世界をいかにして肯定するか」という、簡単そうで難しいことに対峙しーー作品としての表れは一見するとそのように見えなかったとしてもーー内実は世界に対して祝福の態度をとり続けていくことが 「生きること」と「作ること」を同時に実践している、現在を生きる美術家にとって大事なことだといまだに信じています。