著者:妹尾武治(九州大学大学院 デザイン人間科学部門 知覚心理学講座 准教授)
アンジャッシュのコントを見ると、心の本質的な問題がよくわかると思う。ある コントでは、児島さんはバイトの面接をしてくれている面接官が相手のつもりで話をしているのに、渡部さんは万引きの犯人が相手だと思って話している。
渡部「君、前にもこういうことしたことあるの?」
児島「はいよくやってました!」
渡部「よくやっていたってどういうことだ!」
このようなやり取りが笑いを誘う。この時、二人の脳には、それぞれ別々のリアルがある。二つの異なる主観の世界が、矛盾(齟齬)なく成立しているのだ。二人が誤解しているという前提知識を持っているお客さんのみが、矛盾(齟齬)に気がつくことが出来て、笑えるわけだ。
我々の世界は、実は全てこのコントのような状態なのだと私は思う。そして、笑っているお客さんとは、全てを知る存在、つまりこの世界の物理的な存在を把握出来ている「神」なのである。
リアルとは、突き詰めて考えると、脳が作る主観世界のことだ。誰もがアクセス しているように見える「物理世界」は、本当にあるのだろうか?という問いに対してYES!と答えることは論理上出来ない。
哲学者が考える「僕の赤と君の赤」の問題。例えば、僕の赤と色盲の人の赤はおそらく違うだろう。アンジャッシュのコントと全く同じである。我々は、あたかも自分が正解で、色盲の人は誤解をして居ると思ってしまう。しかし、本当はそんなことはない。二つのバーチャルリアルがあるだけだ。本当の正解、リアルつまり、物理世界の「真実の赤」には、正常色覚者も、色盲者も決して辿り着けないのだ。「真実の赤」には、神しかたどり着けないのだ。
コウモリにとってのリアルは、人間にとってのリアルとは違うし、コウモリであるとはどういうことなのか?は、コウモリと同一の感覚器を持って世界に触れることでしか本当には理解できない。 感覚器の種類が増えれば、物理世界へのアクセスの度合いは高まるかもしれない。しかし、それでも、物理世界が本当に存在するのかどうか?はわからない。 結局自分の主観世界にしか人間はアクセス出来ないからだ。
主観世界にしかアクセス出来ない以上、我々は、「マトリックス」に支配されているのと全く同じだ(映画『マトリックス』を未見の方は是非これを機会に一度ご視聴あれ)。この世はVR なのかもしれない。何故、主観世界はあるのか?主観世界の中で、存在するかのように見せかけられている物理世界は、本当にあるのか?全て神が作った VRなのではないか?
そんな風にたまに考えてみて欲しい。